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横浜地方裁判所 平成11年(わ)144号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

この裁判が確定した日から五年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(犯罪事実)

被告人は、平成八年ころから骨粗鬆症により自力歩行が困難となった母A子の介護を一人で行ってきたものであるが、同一〇年一二月、同女を福祉施設に預けて就労しようと考えていた矢先、同女が転倒により自力で起き上がることもできなくなり、施設への入所もしばらく延期せざるを得なくなったことなどから前途を悲観し、同一一年一月一一日午前八時一五分ころ、横浜市鶴見区《番地略》ハイホーム甲野一〇五号被告人方六畳和室において、同女(当時八八歳)とともに死のうと決意し、ベッドに横臥していた同女に対し「死のうや」と言ったところ、同女が「いいよ」と答えたため、台所へ行き、同女を刺し殺すための牛刀をいったん手にしたが、以前同女が「血を見たくない」などと話していたことを思い出し、首を絞めて殺そうと考え、右和室に戻り、タンスの小引き出しから同女の腰ひもを取り出し、横臥したままの同女の脇に腰掛け、同女の頚部に右腰ひもをあて、同女に対し再度「いいのか」と尋ねると同女が頷いたため、同日午前八時二〇分ころ、同所において、同女の承諾のもと、同女の頚部に腰ひもを巻いて締め付け、両手で扼するなどし、よって、同日午前九時五三分ころ、同市神奈川区《番地略》済生会神奈川県病院において、同女を頚部圧迫により窒息死させて殺害した。

(証拠)《略》

(事実認定の補足説明)

一  検察官は、被告人が被害者を殺害するに当たって、被害者の真意かつ任意の承諾が存しないし、被告人がこれを存するものと誤信した事実もないので、被告人は通常の殺人罪の刑責を負う旨主張し、これに対し弁護人は、殺害の外形的事実及び犯意は認めるものの、被害者の真意かつ任意の承諾が存し、仮にこれがなかったとしても被告人はこれをあるものと認識していたのであるから、承諾殺人罪の刑責を負うに止まる旨主張するので、この点につき判断する。

二  本件犯行に至る経緯

関係各証拠によれば、本件犯行に至る経緯について、以下の事実が認められる。

1  被害者は、昭和六〇年末ころから足が不自由になり、平成三年ころ骨粗鬆症と診断され、同六年ころには長時間立っていられない状態であったところ、同女の世話をしてきた同女の夫である被告人の父親が同七年一一月に死亡すると、両親と同居してきた被告人が、丙川家の長男として同女の介護に当たることとなった。同女はもともと気丈夫で辛抱強い性格であったが、夫の死後は、被告人らに「生きていてもしょうがない」などと弱気な言葉を口にするようになり、その度に被告人は「そんなこと言うんじゃあない」と被害者を叱っていた。同女は、同八年二月に転倒して右大腿骨を剥離骨折したため約三か月間入院し、退院後は一人で歩くことができず、ベッド脇のポータブルトイレに手すりを伝って移動する以外は、被告人に手を引っ張ってもらわなければ歩けないほど被告人の介護に頼るようになった。被告人は、月給約四〇万円で溶接工として働きながら食事、洗濯、掃除等の家事一切を行い、午前四時半ころに起床して朝食の準備をし、午前六時ころ同女に朝食を取らせると、昼食をベッド脇に用意して午前八時半までに出勤し、たまに外で酒を飲む時を除いて、同女の夕食の世話をするため午後七時には帰宅するという生活を送り、区役所による週一回の巡回入浴サービスを受ける以外は、周囲も感心するほど熱心に一人で同女の世話をしていた。被害者はトイレのために被告人の手を煩わせた際などに被告人に「悪いな、悪いな」と口にしており、一方、被告人は、同女の介護を一人で抱え込んだことから、本件の一年位前からは、同女と些細な事で口論した後に酒を飲むと、先々に不安を感じて考え込むようになり、また、二度ほど同女に「一緒に死のう」と冗談で言い、同女も冗談で「いいよ」と答えるというようなやりとりがあった。

2  被告人は、同一〇年九月ころ、約一三年間勤めた会社を辞め、自己の貯金と被害者の年金、貯金で生活することにした。しかし、被告人は、長崎に住む姉に相談したところ被害者の福祉施設入所を勧められ、自分自身も仕事に就くため同女を施設に預けた方がよいと考えるに至り、同女が施設入所を了承したことから適当な施設を探し始め、同年一二月に老人保健施設「ヒューマンライフケア横浜」への入所を決め、検査の上、健康診断書等の必要書類を揃え、同月末には翌年一月五日に右施設へ面接に行くことが決まった。ところが、同一〇年一二月に入ってから同女は以前にも増して転倒するようになっていたところ、同月二八日の転倒により自力で起き上がることもできなくなり、車椅子やおむつを使用せざるを得ない状態となった。同一一年一月五日、被告人は右施設での面接の際、同女が右転倒により痛めた左足が骨折している場合には右施設では治療ができないため病院でのレントゲン検査を受けるよう指示され、診断結果を待って入所審査を行う旨説明された。そこで被告人が病院で同女を診察してもらったところ、同女は左腓骨頚部骨折の疑いで全治三週間と診断されたため、被告人は同女の即時入所を断念した。

3  被告人は、同女の誕生日に当たる同年一月一〇日夕方、焼酎のお湯割りを四、五杯飲みながら同女の好物であるカレーを作り、同女にカレーを食べさせてベッドに寝かせ、午後八時ころ外出し、二軒の居酒屋で焼酎のウーロン茶割り四、五杯を飲み、翌一一日午前零時過ぎに帰宅した。被告人は、同日午前六時半ころ、二日酔いの状態で目を覚まして同女のおむつを交換し、迎え酒に缶ビール、焼酎のお湯割りを飲んでいるうちに、同女の施設入所が延びて自己の就職が遅れるため生活費のことが心配になるとともに、施設に入所することになって同女が寂しそうにしていたこと、兄弟が同女の介護に非協力的であることなどを考え気分が落ち込んでいった。そのような矢先、被告人は同女に飲酒を注意され、一生懸命に同女のことを考え世話しているのに理解してもらえていないと思い、腹が立つとともに悲しくなり、同女を殺した上自殺し、今の生活を終わらせたいと考えるに至り、本件犯行に及んだ。

三  被害者の真意かつ任意の承諾の有無について

1  検察官は、被害者が被告人の「死のうや」という言葉に対し「いいよ」と答え、さらにひもを首にあてがわれた際に頷く動作をしたのは、同女が被告人の殺意を認識せず、従前どおりの冗談であると誤解したからか、同女が寝ぼけていたからであり、いずれにしろ真意の承諾はなかった旨主張する。

しかし、被害者が「いいよ」と答えた際に被告人の目を見ていたかどうかは必ずしも明らかでないものの、直前に被害者は被告人に対し飲酒について注意していること、被害者の言葉は被告人に対する応答として合理的なものであることなどからすれば、同女が寝ぼけながら「いいよ」と答えたとはおよそ考えられない。

そして、被告人が実際に本件犯行に及んでいることからして、その「死のうや」及び「いいのか」という言葉が真意に基づくことは明らかであり、被告人が冗談を装った事実もなく、同女の首に腰ひもまで当てて再度の意思確認をしていることからすれば、被告人の真剣さは被害者にも十分伝わり得たと考えられる。

また、検察官は、被告人が突発的に抱いた殺意を被害者が咄嗟に見抜けなかった可能性を指摘する。

確かに本件において被告人が被害者の殺害を決意したことは熟慮を欠いており、その意味で犯行自体は突発的なものと認められるが、前記認定のとおり、被告人と被害者の間には本件前に冗談にせよ心中が話題になることがあったこと、本件犯行の際も被告人は二度被害者の意思を確認しており、特に二度目は腰ひもを同女の首に当てた上でその意思を確認していることからして、被害者が被告人の殺意を見抜けなかったとは考えられない。

2  そこで、被害者が被告人の言葉を真意であると理解した上で、さらに自己の生命を放棄する意思まで有していたか、同女の犯行前の心境を検討する。

まず、被害者が自殺を図ったり「死にたい」と述べたりしたことはなく、遺書を残した形跡や相続、形見分けの話などもなかったこと、被害者の病気は生命に別状のないものであり、肉体的苦痛も著しいというほどではなかったこと、被告人らの生活は経済的に逼迫していたわけではないこと、被害者には楽しみにしているテレビ番組があったこと、犯行の前々日に被害者は「明日は誕生日だ」と言っていたこと、前日の夕食も残さず食べていること、台所の流し台に夕飯に使った皿がそのまま残されていること、洗濯物が室内に干したままで、被害者は寝間着を着たままであったことなどが認められる。これらの事実によれば、被害者が予め死に対する用意をしていなかったことが認められ、少なくとも被告人に「死のうや」と言われるまでは「死にたい」との確定的な意思を持たなかったものと推認される。

しかしながら、被害者は、老人保健施設に入る話が進むようになってからたまにふさぎ込んでいたこと、金はあるだけ使えと言っていたこと、被告人に対し「悪いな」と常々言っていたこと、転倒時などに「痛い思いをして生きていても仕方がない」などと口にすることがあったこと、平成一〇年一二月二八日の転倒による負傷により一人で用を足すことすら自力でできなくなったこと、右負傷による施設入所の延期を認識していたことなども同時に認められる。

これらの事実からすれば、被害者が被告人の介護に満足していて、できれば入所したくないと思う一方で、病状が悪化するにつれ次第に弱気になり、また被告人に迷惑をかけて申し訳ないという気持ちを強めていたことは想像に難くなく、被害者に「死にたい」という確定的な意思はなかったとしても、「死んでもかまわない」という程度の消極的な気持ちがあったと見る余地は十分にあり、本件犯行時、被害者が被告人の真剣な様子を感じ取り、その殺意に応じて死んでもかまわないとの思いから、真意に基づく承諾をした可能性は否定できないと言うべきである。

このことは、犯行の際、被害者が抵抗をしたことを認めるに足りる的確な証拠がないことからも窺われる。

なお、検察官は、被害者が頷いたのは、驚愕、絶望によるか、事実上拒否の自由がなかったからであり、あるいは右動作は被害者の意思に基づかない反射的な動作であったなどとして、任意による承諾がなかった旨主張する。しかし、それまで献身的に被害者の介護に当たっていた被告人にひもを首にあてがわれた状態で「いいのか」と言われただけで、被告人を深く信頼していたものと思われる被害者が絶望したり、抵抗し得ない状態に陥ったとは考えにくく、また、反射的に首を振ったというのも単なる憶測に過ぎない。

3  以上からすると、被告人の本件殺害行為について、被害者の真意かつ任意の承諾がないと認めるには、なお合理的な疑いを容れる余地が十分あるものと言わなければならない。

四  被告人の認識について

被告人は、捜査、公判において、若干の変遷はあるものの、おおむね一貫して判示事実のような経緯で、被害者を殺害した旨供述し、また公判廷では、被害者が「いいよ」と答えなかったら、犯行には及ばなかったとも供述している。

右供述は、三で認定判断した被害者の意思に対応していて、信用することができる。検察官が指摘する、被告人の警察官に対する弁解録取での「死なしたいから殺してやったのです」との供述など、被害者の承諾があったので殺害した旨のおおむね一貫した供述と一見齟齬するかに見える捜査段階の供述も、被害者の承諾があったことを前提として述べたとしても必ずしも矛盾しないものであって、右認定の妨げとはならない。

五  結論

結局、被告人は、承諾殺人罪の限度で責任を負うに止まると言うべきである。

(法令の適用)

罰条 刑法二〇二条後段

刑種の選択 所定刑中懲役刑を選択

執行猶予 同法二五条一項

訴訟費用 刑事訴訟法一八一条一項本文

(量刑理由)

本件は、骨粗鬆症等に罹患し、寝たきりであった八八歳の母親を、その介護に当たっていた息子である被告人が、将来を憂いて同女の承諾を得た上、殺害した事案である。

被害者は、一人で用を足すことができないまでに骨粗鬆症が悪化していたとはいえ、生命にかかわる病気を患っていたわけではなく、また、持ち前の明るさと勝ち気な性格から、人前では弱音を吐くことなく、テレビ番組を楽しむなどして日常生活を苦にばかりしない余裕もあったにもかかわらず、被告人はかかる被害者の尊い生命を絶ったのであるから、結果は重大である。本件は、老人介護で同様の悩みを抱える人々に大きな衝撃を与えており、社会に対する影響も大きい。

また、被告人は、長男としての強い責任感を持つ一方で、兄弟が被害者の介護を自分に任せきっていることに不満も募らせ、兄弟等に十分な相談もしないまま、自己の判断のみで将来をあまりに悲観的に考えすぎ、最も尊重すべき母親の命を軽々に奪ったのであり、犯行に至る経緯及び動機に身勝手な点があることは否めない。以上からすると、被告人の刑責は重い。

しかしながら、被告人は男手一つで被害者の介護をしてきたもので、その献身的な介護ぶりは兄弟、知人らからも高く評価されてきたこと、被告人は被害者の病気が生命にかかわるものでないが故に、逆に先の見えない不安感を抱えており、発作的に本件犯行に出たものと窺われること、被告人は自首しており、真摯に反省し、母親の冥福を祈っていること、九か月に及ぶ勾留や新聞報道等により既に相応の社会的制裁を受けていること、兄弟らは被告人を宥恕すると共に今後の監督を約束していること、以前の就業先に復帰する目途があること、本件犯行の性質上再犯の虞はないこと、前科前歴がないことなど、被告人のために斟酌すべき有利な諸事情も認められる。

そこで、以上のような情状に鑑み、刑の執行を猶予することとしたものである。

(検察官 平出桃子、国選弁護人 奥山寿各出席)

(求刑-懲役五年)

(裁判長裁判官 矢村 宏 裁判官 佐藤正信 裁判官 野中有子)

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